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SANTE for hair 井本健太郎の美容師日記

SANTE for hair は大阪 吹田市の美容室です。
SANTEの理念は「健康第一」。
髪の毛に負担をかけないメニューに特化しています。

いつも読む本 吹田市千里丘ノンジアミン ザクロペインター 天然ヘナ

こんにちは、自己啓発本が好きな井本です。


結構古い本ですが、ニールドナルドウォルシュの【神との対話】


これはいい本ですね(^^)落ち込んだ時に読むと何となく気分が軽くなります。


スピリチュアルな本なので、信じるか信じないかはあなた次第です(`・д・´)ってやつですね


第一章から抜粋

人生は、自分が何者かであるかを思い出すため、創りなおすためにある。

人生は学校でない。学校は知りたいことを知るために行くところだ。

人生は、すでに知っていることを体験する機会だ。

 第一に「語る」でなく、「コミュニケーションする」と言うことにしよう。神とのコミュニケーションは、言葉よりもすぐれた、言葉よりずっと豊かで正確なものだからだ。言葉で語りあおうとすると、とたんに言葉のもつ制約にしばられることになる。だからこそ、私は言葉以外でもコミュニケーションする。いちばん多いのは、感情を通じたコミュニケーションだ。
感情は、魂の言語だ。
何かについて、自分にとっての真実を知りたいと思った時には、自分がどう感じるかを探ってみればいい。
(P15)

 わたしはコミュニケーションの手段に思考も使う。思考と感情は同じではないが、同時に生まれることがある。思考を通じたコミュニケーションには、イメージや画像が使われる。だから単なる言葉よりも思考の方がコミュニケーションの道具として効果的だ。
感情と思考の他にもう一つ、経験という、偉大なコミュニケーション手段がある。
感情と思考と経験のすべてが失敗した時、最後に言葉が使われる。(P15P16)

わたしのメッセージは常に、あなたの最高の考え、最もくもりのない言葉、最も偉大な感情である。それ以外は別の源から生じている。そう考えれば、簡単に区別できるだろう。
最高の考えには、必ず喜びがある。くもりのない言葉には真実が含まれている。最も偉大な感情、それは愛である。
喜び、真実、愛。
この3つは入れ替えることもできるし、互いにつながりあっている。順序は問題ではない。(P17)

わたしからの一番力強いメッセージは経験だ。(P17)

わたしは、強制はしない。おどすこともない。わたしは自由な意思と選択する力をあなた方に与えた。それを奪うことは決してない。(P18)

わたしは世界のすみずみにまで、繰り返してメッセージを送り続けてきた。あなた方がメッセージを受け取って、しっかりと握りしめ、これは自分のものだと言うまで、いつまででも送りつづける。(P19)

 神は誰にコミュニケーションしているのですか?特別な人、特別な時があるのですか?

 すべての人は特別であり、全ての時は黄金である。他よりも特別な人、特別な時というものはない。(P19)

 間違っているように思われても、神の言うことに耳を傾けるべきだというのですか?

 間違っていると思う時には、特に耳を傾けるべきだ。何でも自分が正しいと思っていたら、どうして神と語る必要があるのか。
自分が知っているすべてをもとに進み、行動すればよろしい。しかし、人間はずっとそうしてきた結果、世界がどうなったかを見てごらん。明らかに、あなた方には何かが欠けている。理解していないことがある。あなた方は自分が理解したことだけを正しいと思っている。なぜならば、あなた方にとって「正しい」というのは、自分が同意したことをさす言葉だからだ。従って自分が理解できないことは、初めのうちは「間違っている」と感じる。
前進するには、「自分が『間違っている』と思ったすべてが本当は『正しい』としたら、どうだろう?」と自分に問うしかない。(P20)

 何が権威ある根拠なのですか?

 自分の感情に耳をすますことだ。自分の最高の考えに耳を傾けなさい。自分の経験に耳を傾けなさい。そのどれかが、教師に教えられたことや本で読んだことと違っていたら、言葉の方を忘れなさい。言葉は真実の伝達手段として、いちばん当てにならない。(P22)

神は外からわかるかたちで、あるいは外界の現象を通じて出現するのではなく、その人の内的体験を通じて姿を現すのだから。内的体験を通じて現れるなら、外から見える姿は必要ない。外から見える姿が必要だというなら、内的体験は不可能だ。(P24P25)

 欲しいものを求めることはできないのですか?何かを祈るということは、実はそれを遠ざける事になるのですか?

 求めるというのは、自分にはないと言いきることであり、欲すると言えば、まさにそのこと(欲すること)を現実に体験することになる。従って正しい祈りとは、感謝である。
現実に体験したいと考えることを前もって神に感謝するというのは、願いは叶うと認めることだ。感謝とは神を信頼することだ。求めるより前に神が応えてくれると認めることだから。決して求めたりすがったりせず、感謝しなさい。(P25P26)

祈りが叶えられないというときは、実は、最も強く信じている思考や言葉、感情が作用している。あなたが知っておかなければならない大切な秘密は、思考の陰には常にもうひとつの思考、「思考を支える思考」とでも言うべきものがあって、それが、思考をコントロールしているということだ。
つまり、何かを求めたり、願ったりしたら、望んだことが叶う可能性は非常に小さい。なぜなら、「欲求を陰で支えている思考」というのは、「望みは叶っていない」という思いだから。そちらのほうが現実になるのだ。(P27)

神があらゆる求めに応じてくれると信じることはむずかしいが、そもそも求める必要はないのだと直感的にわかっていれば、祈ることはずっとやさしくなる。そのとき、祈りは感謝の祈りになる。求めるのではなく、望みが叶っていることを素直に感謝するようになる。(P27)

 祈りとは、望みが叶っていることを感謝することだとしたら、神は何もしないのですか?

 神は(人間の人生の)観察者であって、創造者ではない。神はあなた方の人生を助けるが、あなたが期待しているような助け方はしない。
人生の環境や条件を創造したり、しなかったりすることは、神の働きではない。神は神に(能力を)似せてあなた方を創造した(本質が同じだという事)。残りは、神が与えた力によってあなた方が創造したのだ。
神は人生というプロセスと生命そのものを創造した。だが、神はあなた方が自由に選べる選択肢を、人生を好きなように生きる力を与えた。
その意味では、あなた方の意志は、あなたがたに対する神の意志でもある。
あなたの生き方はあなたの生き方であって、わたしはそれを、良いだの悪いだのと判断したりしない。(P28)

プロセスについてはあまり気にせず、結果について深く懸念するという事-これが、神の二分法に近い。
もっとも、ある意味では、神は結果についても気にしていない。究極の結果については懸念していない。究極の結果は確実に決まっているからだ。(神であることに気付き、神と一つになること)
そこが、人間の第二の幻想だ。人生の結果が不確かだと思ってている。
究極の結果が不確実だと思うから、あなたの最大の敵が生まれる。不安だ。結果に確信が持てないから、創造者を疑う。神を疑う。神を疑えば、不安と罪悪感をいだいて生きることになる。
神の意図を疑い、究極の結果を生み出す神の力を疑っていたら、安らかでいられるはずがない。真の安らぎは感じられない。(P29)

あなたは幻想のなかで生き、そのために不安を感じる。すべて、神を疑おうとしたことから生じているのだ。
だったら、別の決意をしたらどうか。そうしたら、どんな結果になるか。
それを教えよう。あなたがたは仏陀のように生きるだろう。イエスのように生きるだろう。これまで偶像化されたすべての聖者のように生きるだろう。
これらの聖者たちと同じように、あなたは理解されないだろう。あなたが感じる平穏や人生の喜びを、恍惚感を説明しようとしても、ひとはあなたの言葉だけを聞いて、内容は理解しないだろう。(P30)

 深く探ってみれば、人間の行動には二つの動機しかない。不安か、愛か。
実は、感情の源もこの二つだけだ。魂の言語にはこの2つの言葉しかない。この二つはわたしが宇宙を創造し、あなた方が住む世界を創造したときに生み出された二つの極なのだ。
これらが「相対性」というシステムを可能にする二点、アルファでありオメガだ。この二点、ものごとに対するこの二つの思考がなければ、ほかの思考は存在し得ない。
人の思考も行動もすべて、愛か不安か、どちらかを根拠としている。他の考えはすべて、この二つから派生したものだ。単なるヴァリエーションで、同じテーマが変化したものにすぎない。
よく考えてみれば、これが真実だということがわかるだろう。これが、「支える思考」とわたしが呼ぶものだ。愛という考えか、不安という考え。そのどちらかが、すべての思考の陰にある。この二つは最初の思考、最初の力だ。人間の存在というエンジンを動かしている生のエネルギーだ。
人が何度も何度も同じ体験を繰り返す理由もここにある。人が愛し、次に破壊し、そしてまた愛するのはそのためだ。常に、一方の感情から他方の感情へと揺れ動くからだ。愛は不安を支え、その不安は愛を支え、その愛がまた不安を支える・・・・・。
・・・原因は最初の誤りにある。神の真実に対する誤り、神を信頼しないという誤りだ。だから、神の愛を頼れない。神が条件つきであなたがたを受け入れると思う。(P31)

自分が何者であるかを知っていれば、悩みは消える。あなたがたは神が創造したなかでいちばんすばらしい、すぐれた存在であることを知っていれば、決して不安にならないはずだ。そんなすばらしい存在を誰が否定できるだろうか。神でさえ、そうした存在に欠陥を見いだすことはできない。
なのに、あなたがたは自分が何者であるかを知らず、だめな存在だと考えている。では、どうして自分はだめなんだと思い込んだのか。そう思わせたのは、あなたがたが無条件で信じた唯一の人たち、母親と父親だ。
親は、あなたをいちばん愛している。それなら、どうして偽りを教えるのだろう。
・・・・・思い出してみてほしい。親は、こうしてはいけない、こうしなくてはいけないと叱りはしなかっただろうか。<中略>
愛は条件つきだと教えたのは親だ。(P32)

不安を秘めた愛という現実が、あなたがたの愛の経験を支配している。愛の経験を創り出していると言ってもいい。なぜなら、あなたがたは条件つきで愛されるだけでなく、自分も同じように、相手を条件つきで愛していることに気づくからだ。(P34)

愛について(間違った)考え方をしているから、あなたがたは純粋な愛を体験できない。それに、真のわたしを知ることもできない。だが、それも、いつかは終わる。なぜなら、永遠にわたしを否定しつづけることはできず、やがては和解の時が訪れるからだ。(P34)

人間の考え、言葉、行為のすべては、どちらかの感情がもとになっている。他に選択の余地はない。これ以外の選択肢はないからだ。だが、どちらを選ぶかは自由に決められる。(P34P35)
(どちらを選ぶかの)いちばん偉大な教師は、あなた方の心の声である。(P35)

 愛に支えられた行動をとれば、自分は本当は何者か、何者になり得るのかという、栄光に包まれた経験ができるということを、もう少し詳しく説明してくれますか?

 あらゆる生命の目的はひとつしかない。あなた方、そして生きとし生きるものすべての目的は、できる限りの栄光を体験する、ということだ。
話したり、考えたり、行動したりするのもみな、この目的のためだ。魂がすることは他になく、魂が望むことことも他にない。(P36)
最高の秘密は、人生とは発見ではなく創造のプロセスだということだ。(P36)
だから、自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい。そうではなく、何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい。(P37)

 何のためにこの世に生きているのですか?

 自分が何者であるかを思い出すため、そして創りなおすためだ。(P38)

(あなた方の言う)人生とは、概念として知っていることを体験的に知る機会だ。何も学ぶ必要はない。既に知っていることを思い出し、それにもとづいて行動すればいい。(P38)
魂は、知る必要のあることはすべて知っている。隠されていることは何もないし、知らされていないこともない。だが、知っているだけでは、充分ではない。魂は体験したがっている。
自分が寛大であることを知っていても、寛大さを示す何かをしなければ、概念にすぎない。親切であることを知っていても、誰かに親切にしなければ、自意識があるだけだ。
自己についての偉大な概念を体験に変えたい。それが魂の唯一の望みだ。概念が体験にならない限り、推測にすぎない。わたしは長い間、自分について推測をめぐらしてきた。(P38P39)

 物質世界を作った訳

 まず初めに在ったのは、「存在のすべて」それだけだった。ほかには何もなかった。
その「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。
なぜなら「存在のすべて」---あるのはそれだけで、ほかには何もないから。ほかに何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる。「存在のすべて」は、裏を返せば「無」と同じことだった。(「神との対話」P39)

さて「存在のすべて」は、あるのは自分自身だけだと知っていたが、それだけでは充分ではなかった。何故なら、「存在のすべて」であることの絶対的な素晴らしさを概念的には知っていたが、体験的には知り得なかったから。そこで、自らを体験したいと激しく望んだ。素晴らしいというのはどんな感じなのか、知りたかった。だが、それは不可能だった。なぜなら、「素晴らしい」という言葉そのものが相対的なものだったから。「存在のすべて」は、素晴らしくないとはどういうことなのか分からなければ、素晴らしいとはどんなのかを知ることができなかった。否定があってはじめて、肯定があるからだ。
 このエネルギー、純粋な、見えず、聞こえず、観察できず、従って他の誰も知り得ないエネルギーは、自分の素晴らしさを体験しようとした。その為には、自分の中にある比較対照の基準を使わなければならないと気付いた。
一部は全体より小さい、それなら自らを分割すれば、それぞれの部分は全体よりも小さいのだから、残る全体を振り返って、素晴らしさを知ることができるだろう。
そこで、「存在のすべて」は自らを分割した。「これ」と「あれ」が分かれた。しかも、どちらも同時に存在している。また「どちらでもないもの」も存在している。こうして3つの要素が生まれた。あらゆる物を包み込むのは無である。空間を包合するのは、非空間である。部分を支えるのは全体である。
 あらゆる物を包み込むの無、それをある人々は神と呼ぶ、だが、これも正確とは言えない。神とは「存在のすべて」であって、同時に「すべてでない」ものでもある。
さて、「ここ」にあるものと「あそこ」にあるものを創り出し神は、自らを知る事が可能になった。この内側からの爆発(ビックバン)が起こった時、神は相対性という自分への最も偉大な贈り物を創造した。
全ての要素が出現したので、時が生まれた。なぜなら、物はまずここにあって、次にあそこにあるのであり、ここからあそこに移る時間は計測できるからだ。
見える部分がそれ自身を定義づけ、各部分が「相対的」になったように、見えない部分も定義づけられ、相対的になった。
神は、純粋な愛である自分を知るために、対照となる正反対のあらゆるもの-「不安」-を創り上げた。
わたしは自分の無数の部分(霊)に、全体としてのわたしが持っているのと同じ創造力を与えた。私達は同じものでできている。同じ資質、能力を持っている。その能力には、宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている。
わたしがあなたがたを創造したのは、神としての自分を知るためだった。あなたがたを通してしか、知る方法がなかったからだ。従ってあなたがたを創った目的は、あなたがた自身がわたしであることを知らせるためだったと言ってもいい。
あなたがた自身がわたしであることを知る方法はただひとつしかなく、それはまず、わたしではないものとしての自分を知ることからだ。
神との共同行為の計画の下で、純粋な霊であるあなたがたは、創造されたばかりの物質的な宇宙に入る。概念として知っていることを体験として知るには、物質的な世界で経験するしかないからだ。自分が何であるかを知るためには、自分ではないものと対決しなければならない。これが相対性の理論の目的であり、全ての物質的な生命の目的だ。
自分を創らないという経験があって初めて、自分を創ることができる。「何である」ためには、「そうではない」ことを体験する必要があるが、自分でなくなることは出来ない。もともと神の子供なのだから。そこで、次善の方法として、自分が何者であるかを忘れたのだ。
物質的な宇宙に入った時、記憶を捨てた。自分が何者であるかを選べるようになった。あなたは神の一部であると聞かされるのではなく、神の一部としての生き方を自分で選び取る。そうすれば全ての選択肢を与えられた上で、自らを体験することが出来る。全ての選択肢、それが神である。(P39~P46)

世界の悪と呼ぶものを非難してはいけない。それよりも、それのどこを悪と判断するのか、どこを変えたいのかとと自問しなさい。外に向ってではなく、内に向って「この災厄を前に、今自分は何を体験したいのだろう。自分のどの部分を引き出したいのか」と問いかけなさい。人生のすべては、あなた自身の創造の道具なのだから。そして、出来事のすべては、自分は何者なのかを決定し、その自分になる機会を与えるために存在しているのだから。
これがすべての魂にとっての真実だ。宇宙には創造者がいるだけで被害者はいない。この地球上に現れた<マスター>(大いなる師)はすべて、そのことを知っていた。だから、どの<マスター>を見ても、自らを被害者とは考えていない。多くの<マスター>が迫害されているが。(P51P52)

それぞれの魂は<マスター>である。<中略>
あなたがたは他者が歩む因果(カルマ)の道を、善いとか悪いとか判断してはならない。<中略>
ものごとを災難とか、喜ばしい出来事とかいうのは、それをどう活用するかを決めてから、あるいは見届けてからにしなさい。ひとつの死が数千の生命を救うなら、それは災いだろうか。悲しい出来事ばかり続いたら、良い人生だろうか。しかも、それすらも決め付けるべきではなく、ただ自分の胸の内で考えるだけにして、人のことは当人にまかせておきなさい。
だからといって、助けを求める声や、環境や条件を変える努力をしようという自らの魂の呼びかけを無視しなさいというのではない。ただ、何をするにしても、レッテルを貼ったり、決めつけたりするのは避けなさい。それぞれの環境が贈り物であり、それぞれの経験が隠された宝なのだから。(P52)

世界には犠牲者もいなければ、悪人もいない。誰も、他者の選択の犠牲者ではない。ところがあるレベルでは、あなたがたはみんなで唾棄するものを創り出している。創り出したということは、それを選んだということだ。
これは進んだレベルの思考だ。すべての<マスター>は遅かれ早かれ、このレベルに到達する。すべての責任を引き受けたときにはじめて力を得て、ほんの一部でも「変える」ことができるようになる。
「こんな目にあう」のは、何か、あるいは誰かのせいだと考えているかぎり、どうすることもできない。「わたしの責任だ」と言ったときはじめて、それを変えられる。
自分がしていることを変えるほうが、他者がしていることを変えるよりずっと容易だ。
何ごとであれ、それを変える第一歩は、選んだのは自分だと認め、受け入れることだ。個人として責任があると思えなければ、わたしたちはすべて一体であるという理解を通じて、認めなさい。それから、間違っているからではなく、ほんとうの自分にふさわしくないからという理由で、変化させる努力をしなさい。(P55)

あなた方は、集団として、また個人として、魂の発達という目的に向って、自分達の人生と時を創造している。
あなたは、もっと苦痛の少ないプロセスはないのか、とたずねた。答えはイエスだ。しかし表面的な経験には何も変化はないだろう。地上の経験や出来事に感じる苦痛を---自分の苦痛も他者の苦痛も---減らすには受け止め方を変えればいい。
あなた方は、(集団によって創造された)外部の出来事を変えることは出来ない(そこまでまだ意識が成長していないから)。だから、内的な経験を変えるしかない。これが生きる道の王道である。
どんなことでも、それ自体は苦痛ではない。苦痛は誤った思考から生まれる。考え方が間違っているのだ。
ものごとを勝手に決め付けるから、苦しむのだ。決め付けることをやめれば、苦痛はなくなる。(P57)

 もう一度、お聞きします。あなたの世界にないのなら、どこの世界に「せよ」とか「してはならない」ということがあるんでしょうか?

 あなたがたの想像の中に。(P59)

わたしは正邪も善悪も決めたことはない。(P59)

地獄とは、間違った考え方から受ける苦しみだ。(P60)

すべて物質的な生命は自然の法則に従う。あなた方の目には罰と見えるもの、あるいは悪とか不運と思われるもの、それは自然の法則の結果でしかない。(P63)

 知的、肉体的にハンディのある人達にも無限の可能性は、あるのですか?

 その人達に、自分が選びもしない制約があると思うのか。人間の魂が人生のチャレンジに-どんなチャレンジであれ-行き当たりばったりに出会っていると思うのか?そう考えるのか?(P67)

 それでは、魂は、どんな人生を体験するかを前もって選択しているというのですか?

 いや、違う。それでは出会いの目的が損なわれてしまう。現在という栄光ある時に、経験を創り出すこと、従って自らを創り出すことが魂の目的なのだから。だから、どんな人生を経験するのか、前もって選びはしない。
だが、経験を創り出すための人や場所、出来事は選ばれ、条件や環境、そしてチャレンジや障害、機会と選択肢も選ばれている。<中略>それで何を創るかは、あなた方の仕事だ。それが人生というものだ。
魂が何を選んでも、あなた方には限りない可能性が開けている。あなた方が限られたものと呼ぶ肉体に宿る魂にはどんな事も可能だ。ただあなた方には、魂の課題が理解できないし、魂の意図もわからない。
だから、あらゆる人と条件を祝福し、感謝しなさい。<中略>神の世界では行き当たりばったりに起こることは何もないし、偶然もない。
世界は、あなたがたが運命と呼ぶ気まぐれな選択に翻弄されてはいないのだ。(P67)

完璧だというのはプロセスのことであり、すべての人生は選択されたものだ。その選択に介入したり、疑問を持ったりすべきではない、まして、批難するべきではない。
では、どうすべきか。魂がより高い選択を求め、実行するように見守り、助けてやることだ。
ほかの人たちの選択に注目しなさい。だが、決めつけたり、批判してはいけない。彼らの選択はいまの時点で完璧だということを知っておきなさい。そして、彼らが新しい選択、異なる選択、より高い選択をしたいと思ったときには、助けてやれるようにそばにしてやりなさい。(P68P69)

何かを「正しい」と考え、何かを「間違っている」と考えるのは、一方的な決め付けだということを覚えておきなさい。ものごとは、あなたがそう言うから、正しいとか間違っていることになるのであって、それ自体に正邪はない。

 そうなんですか?

「正しい」とか「間違っている」とかは、ものごとの本質ではなく、個人の主観的な判断だ。その主観的な判断によって、あなたは自らを創り出す。個人的な価値観によって、あなたは自分が何者であるかを決定し、実証する。その判断を下せるように、今の世界が存在している。世界が完璧になったなら、自分を創造するプロセスとしての人生はそこで終わってしまう。(P69P70)

不安や怖れは愛の対極である。これが第一の両極。相対性の領域を創ったわたしは、まず自らの対極を創り出した。さて、あなたがたが暮らす物質的な領域には、二つの在り方しかないと言った。不安と愛である。不安に根ざした思考が、ひとつの物質的な場を生む。愛に根ざした思考がもうひとつの場を生む。
地球に生まれた<マスター>たちとは、相対性の世界の秘密を発見した人たちである。そして、それが現実だと認めなかった人たちである。要するに<マスター>とは、愛だけを選択した人たちである。(P82)


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Author:井本健太郎
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